創設者について
創設者ヨゼフ・フロジャクについて
本当は、わたしは人夫にすぎないのです。ただ御摂理の人夫であっただけです。それよりも愛する恩人方は、ほんとうによくわたしの仕事を助けて下さいました。また病人や子どもたちの多くは、ベタニアの事業を経て、天国への道を見出しました。そしてもしわたしの模範によって、皆さんに「生きることは愛することである。愛することは行なうことである。ということをわかっていただけたら、慈生会の事業も、もっと進んだものになり、多くの病人や貧しい人をよりよく助けることができたでしょうに・・・」(遺言書より)
1886年(明治19年) 3月31日
フランスのアヴェロン県ロデス市に生まれる
生後5日目に受洗、洗礼名はヨゼフ
1906年(明治39年) 20歳
パリ外国宣教会神学校入学
1909年(明治42年) 23歳
9月パリ外国宣教会神学校卒業、司祭に叙階
翌日、東京教区派遣の命を受け、11月21日にマルセイユを出発12月30日横浜に上陸
1910年(明治43年) 24歳
1月に宇都宮教会に赴任、先輩のカジャク神父から日本語と日本の事情を学ぶ
1911年(明治44年) 25歳
水戸の教会を任され、北関東各地の徒歩伝道に従事
1913年(大正 2年) 27歳
東京の築地教会に移る
1914年(大正 3年) 28歳
浅草教会に赴任
1918年(大正 7年) 32歳
1月7日に関口教会に赴任
1月24日に病に倒れ、医者に見放されるが、2月11日の「ルルドの聖母」の祝日に奇跡的に突然快癒
回復後は、主任司祭・神学校長・教区会計主任を兼職、寝食を忘れる
1923年(大正12年) 37歳
9月関東大震災 震災後の被災者救助に全力 神学校長辞任
1927年(昭和 2年) 41歳
7月19日東京市立中野療養所に入院していた関口教会の一信者の青年を、他の神父の代理で見舞ったことから療養所訪問が始まる
始めの頃は一人で毎金曜日 省線(現在のJR)で目白から中野へ行き、駅から徒歩で通い、全患者を見舞った
やがて関口教会の青年たちが手伝うようになった
美智子皇后の祖母、正田 きぬさんがフロジャク神父から受洗
1930年(昭和 5年) 44歳
6月27日中野療養所に近い小川のほとりに「ベタニアの家」落成 男性患者15名収容
これがフロジャク神父の後半生の歩みの第一歩となる
さらに女性患者5名収容のための民家を借用
1931年(昭和 6年) 45歳
無理解な土地の新聞が「ベタニアの家」攻撃の記事をトップで掲載
周囲の無理解と資金難に苦しみながら事業維持のため日夜奔走
「ベタニアの家」の事業を手伝うために関口教会の若い女性信者の集まり「ロゼッタ姉妹会」が誕生し、献身的に神父を助ける
1932年(昭和 7年) 46歳
小聖堂付きの男女各16名の病床を持つ「ベタニアの家」増築
新事業を展開するため清瀬村に山林2万坪を購入
江古田に患者家族の小さい子どもを救済するため「ナザレットの家」建設 男児10数名を収容
年末財政的に行き詰ったところ皇室からのご下賜金5千円で苦境脱出
以後、皇室への敬愛の念深く心に刻まれる
1933年(昭和 8年) 47歳
清瀬村に療養農園「ベトレヘムの園」建設、男女60名の軽快者を収容
さらに小聖堂を建設(翌年清瀬教会(秋津教会の前身)となる)
1934年(昭和 9年) 48歳
「ベトレヘムの園」隣接地7500坪を買収し、養護施設「東星学園」建設(1962年(昭和37年)「ベトレヘム学園」に改称)
「ナザレットの家」から学齢児33名を移し、「ナザレットの家」を乳児院に転換
1935年(昭和10年) 49歳
「ベタニアの家」が病院の認可
東京府知事からの要請で「ベトレヘムの園」も「ベトレヘムの園病院」の認可を受け療養所に転換
軽快患者のために「聖ヨゼフ寮」を開設
1936年(昭和11年) 50歳
学園児のため東星尋常小学校(現在の「東星学園」)を開設 職員6名、通学生19名を加えて52名
5年間で5つの別の施設を運営する繁忙の中、療養所訪問も毎週欠かさず、関口教会の主任司祭も継続
4月神父との意思疎通不足から「ロゼッタ姉妹会」の会員数名が脱退 事業を手伝う労力不足から危機的状況
5月関口教会の主任司祭を辞し、事業に専念することを決意
「ベタニアの家」の小聖堂を江古田教会(徳田教会の前身)とする
「ベトレヘムの園」構内に修道院を建設
1937年(昭和12年) 51歳
ローマ教皇庁の承認に基づき、6月4日に東京教区立の修道女会「ベタニア姉妹会」(現在の「ベタニア修道女会」)として認可される
1938年(昭和13年) 52歳
東星尋常小学校に幼稚園を併設、園児27名
6月25日「ベタニア姉妹会」5名の初誓願式、シスター誕生
1939年(昭和14年) 53歳
2月機関紙「瑠璃草」創刊、初めて「不老若」のペンネームを使用
1941年(昭和16年) 55歳
12月真珠湾攻撃、日本が米英に宣戦布告
フロジャク神父ら外国人神父の立場が微妙になる
1940年(昭和15年) 54歳
ご下賜金で「ベトレヘムの園病院」に紀元2600年記念病棟完成
東星尋常小学校に高等科を併設
1943年(昭和18年) 57歳
外国語排斥により、4月「ベタニア事業協会」を「財団法人慈生会」に名義変更
6月「徳田保育園」(戦時託児所)を開設
1945年(昭和20年) 59歳
8月15日終戦 全施設が戦災を免れ患者や子どもたちが無事であったことを神に感謝
10月北海道旅行への途上、上野の地下道で浮浪者のあまりの惨状を目にして驚き、旅行後直ちに「ベタニア巡回診療班」を組織 12月より陣頭に立って連日浮浪者の救援活動に当たる
1946年(昭和21年) 60歳
宮内省の木下侍従次長に願い出て、7月那須の旧御料地約300町歩の貸し付けを受け、直ちに開墾を開始
秋までに1キロの自動車道路と4町歩の畑を開き、引揚者や復員者を受入れ
12月電線を引き込み、付近の村に電灯がともる 仮診療所開設
年末天皇皇后両陛下に拝謁 戦後の社会福祉事業の方向などについてお話申し上げる
1947年(昭和22年) 61歳
2月上野地下道への出張診療をひとまず打ち切る
7月東星中学校を開校 戦災児のため学園を増築し140名収容
9月天皇皇后両陛下が那須の開墾地へ行幸啓、フロジャク神父の案内で2時間余りを過ごされる
1948年(昭和23年) 62歳
1月米国経由欧州の旅に出発 3月ローマで教皇ピオ12世に拝謁
その後39年ぶりにフランスのロデスの生家を訪ねる
フランス政府から日本のために尽力した功績でレジオン・ドヌール勲章授与 6月帰国
1949年(昭和24年) 63歳
上野駅近くに坂本診療所開設
1950年(昭和25年) 64歳
坂本診療所地内に上野保育園を開設(現在の上野教会の前身)
1952年(昭和27年) 66歳
7月財団法人慈生会が社会福祉法人として登記完了
1953年(昭和28年) 67歳
7月徳田教会献堂式
1954年(昭和29年) 68歳
那須の聖マリアの山に林間学校用宿舎八角堂完成。アフタケア施設などの建設着々進む
那須開発構想を発表 知的障害者施設・修道院・黙想の家などが含まれる
1951年(昭和26年) 65歳
教会の建設予定地として、徳田保育園の隣接地に1町歩を入手
財団法人東星学園が学校法人となる
1958年(昭和33年) 72歳
9月「慈生会病院」竣工
10月「ベトレヘムの園」構内に老人ホーム「聖家族の家」竣工(1959年(昭和39年)「聖家族養老院」として認可、1963年(昭和38年)「聖家族ホーム」に改称)
1956年(昭和31年) 70歳
10月那須のアフタケア施設を転用し、知的障害児施設「光星学園」開設 48名の児童収容
(1964年(昭和39年)に成人対象施設を併設、1976年(昭和51年)現在の「マ・メゾン光星」の前身の成人施設に特化)
1959年(昭和34年) 73歳
1月 朝日賞受賞、副賞の50万円に「花より団子が嬉しい」と挨拶
3月 NHKテレビ番組「ここに鐘は鳴る」で、フロジャク神父の生涯と事業の紹介
9月 司祭叙階50年の金祝
11月末より衰弱のため臥床
12月12日 「さようなら」の一語を残して帰天
「わたしは貧しい人びとの友であった。わたしの葬式は貧しい人にふさわしいものにして欲しい。花は一切ご遠慮したい。思し召しがあったら貧しい人びとに与えていただきたい。」が遺言であった
死後、勲四等瑞宝章を贈られ、天皇陛下より祭祀料を賜る
フロジャク神父についての著書
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著書名 | 著者(発行者) | 出版社 |
---|---|---|
フロジャク神父の生涯 | 五十嵐茂雄著 | アスピランテ社 |
ベタニア修道会とフロジャク神父 | 清水須巳子著 | 清水弘文堂 |
創立者 フロジャク神父の小伝 | ベタニア修道会 | ー |
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