フロジャク神父物語 ~日本社会事業の先駆者~

文:山下 幸治                                               掲載:社会福祉法人 恵の園「めぐみ新聞」                                      昭和63年12月~平成元年1月 第130、133、134号


ヨゼフ・フロジャク 1 / Joseph Flaujac, 1886~1959


昭和34年12月12日、午後9時35分、73歳でこの世を去った。「さよなら」のひとことを残して。その遺言は「わたしは貧しい人々の友であった。わたしの葬式は貧しい人にふさわしいものにして欲しい。花は一切ご遠慮したい。思し召しがあったら貧しいひとびとに与えていただきたい」というものであった。
人間の本性はその人の最期によく表れるといわれるが、この遺言がフロジャク神父のすべてを語るものであることは確かである。この世の栄華に心を奪われることなく、底辺に喘ぐ人々に具体的援助の手を差し伸べた生涯こそ、最近よく耳にする「福祉」の言葉、それに従事する人々への警鐘として受け止めてほしいと切願する。
死の直前、当時の安田厚生次官が「勲章を準備しています」と看護の人に伝えた。後刻そのことを聞いたフロジャク神父は「勲章かね、それは猫のシッポだよ」と冗談をいった。そしてポツリと「わたしは勲章のために働かなかった」と告白した。そこにフロジャクの真面目を見る思いがする。
明治19年3月31日、フランスのアヴェロン県ロデスに生まれ、明治42年9月、パリ外国宣教会神学校を卒業。11月21日はマルセーユを出て12月30日に横浜に上陸。日本の土を踏み、以来50年間、日本で働き、日本の土となった。その手になる「瑠璃草」という通信文を読むと、どれほど気配りをして日本で生きたか、どれほど多くの人々がフロジャクの働きのために協力したかを知らされる。
気配りについては、この通信文が最初に出されたのが昭和14年1月であったが、当時の日本は第二次世界大戦前夜でもあり、種々の規制が時の政府によってなされていた。そうした中で、外国人という特殊な立場から神経こまやかに文章を綴っている。一例を挙げるならば、昭和14年4月の復活祭の瑠璃草には「御復活のお祝いを申上げます。尚さきに御皇室におかせられては清宮内親王様御誕辰を拝し奉り衷心よりお慶び申上げます」という書き出しで始まる文章がのっている。皇室への尊敬は何にもまして重要なことという認識を持っていることが感じられる。また自らの名を「不老若」という日本文字に表現している。これらの神経の使い方は、並々ならぬものを感じ、その苦心の程を案ずることができる。そんな不自由極まりない異国での働きが続けられた。
明治42年の暮れに来日したフロジャクは、翌年1月、宇都宮に赴任したが、間もなく水戸に移り、その後東京に転じて73歳まで東京を離れることはなかった。


ヨゼフ・フロジャク 2


昭和2年7月19日、41歳の神父は同労の神父の都合で代役としてはじめて東京中野区江古田にあった東京市立中野療養所に行き、高橋登美男という青年を見舞った。フロジャク神父がそこで目にしたのは、治癒する見込みのない多くの結核患者たちが病と斗いながら苦しみの中に生きている姿であった。療養所の設備の足りなさ、治療の不充分さ、アフターケアの皆無に等しい現実をフロジャクは痛切に感じ、そうした患者たちをいかにして救済するかを考え始めた。
昭和23年頃、筆者は東京清瀬にある国立東京療養所に宮本忍博士を訪問したが、その建物の古さ、採光の充分でない病室、全体に暗く汚れたところという印象が非常に強かったのを今も記憶している。その後数年したある日、同じ療養所に、石田波郷を訪ねたが、建物は以前と少しも変わっていなかった。
昭和2年、即ちその20年も前の病院の状態は容易に推測される。ひとたび結核にかかればほとんどが死を待つというありさまで、世人から忌み嫌われる病気、その病になれば、それをひた隠すというのが常であった戦前のわが国の姿であった。そんな中で、フランスという近代医学の進んだ国から来て間もない神父が結核療養所を訪れ、愕然としたのはいうまでもない。フロジャクは貧しい結核患者たちが病に倒れ、死体となって裏口から運び出されて行くのを見て心を痛め、救済の手立てを考え始めた。
大正9年、岩崎家の別荘が寄贈され、初めて公立の結核療養所として発足した中野療養所は、近隣の住人たちの反対運動に遭い、苦難の時代を経て昭和初期には千数百人もの多くの人々を収容するまでに拡張される。しかし、依然として死を覚悟しなければならないという患者たちが、その時を待つという状態は続いていた。そんな状況下でフロジャクは、先づ、療養所を退所しても帰る家のない人を収容し、アフターケアを安心して受けられる場を設ける事を決意する。その第一歩として昭和4年9月に一軒の家を借り、患者5人を収容した。ついで中野療養所近くに患者15人を収容する施設を建設し、それを「ベタニアの家」と命名した。昭和5年のことである。
当時の社会情勢は明治29年に起った恐慌に端を発し、33年には金融恐慌が起る。大正4年第一次世界大戦の折、一部の成金が世に出るが、それも長続きせず、昭和2年には金融恐慌が再燃し、昭和4年には世界規模に発展するという誠に不安に満ちた時代であった。従って人の「こころ」もまた荒すさむという現象が続いた。失業者は巷に満ち、それに乗じて嬰児殺し、人さらい、人買い、幼年工虐待等の悪が横行するという時代であった。加えて満州事変が勃発するという背景があった。従って民衆は生きる事に心を奪われ、他へ目をむける余裕すらなかった。


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そんな中でフロジャクは、患者のアフターケアの場作りを進めたのだ。思えばどれ程の辛酸を体験したことか。彼には充分な財があるはずもなかった。そのために関口教会婦人会の人々に援助を求め、心ある人々の助けを得ての建設であった。大正8年に結核予防法が成立したとはいえ、結核に対する理解も薄く、むしろ忌み嫌う面が露骨に表れる世代を思えば、その苦労の程が窺われよう。
しかし、フロジャクはそれで留まる事なく、次に患者同様に見離されて苦渋している子供たちを守るために「ナザレトの家」を建設し、男児十数名を収容している。この家の建設も、篤志家の建築家によって奉仕に近い価格で建設されたが、その代金すら支払うことが出来ずに苦しんだ。そのために用意した金はほとんどといってよい程なかったのである。しかしフロジャクは、路頭に迷う患者の子どものために何かをしなければ、という止むに止まれぬ思いで市野という建築家にお願いをして建てたのであった。
そのフロジャクの苦衷を知ったロゼッタ姉妹会のシスターたちがそのために“ノベナ”といわれる9日間続く切なる祈りを献げたと伝えられている。おそらく断食に近いかたちのものであったと推察される。最初に記したように、フロジャクは多くの人々に支えられてその責任を全うしている。
ナザレトの家の建築費は、神父の苦しみを伝え聞いた大森に住む一人が6百円という大金を、また宇都宮の一人は4百円と当時としては大金を送ってきた。更に12月24日宮内庁からの御下賜5千円があり、神父はこの苦境を打開することが出来た。
思えば、フロジャクの生涯は茨の道であった。その辛い厳しい道を敢えて求め、一歩一歩底辺に生きる人々の救済のために進んだ。